「女工哀史」や『あゝ野麦峠』の影響もあり、製糸工場と聞くと「過酷な労働環境」を連想する方は多いかもしれません。
ですが、明治5年に開設された官営の富岡製糸場は、実はまったく異なる性格を持っていました。
富岡製糸場は、当時の日本における“近代化の旗艦”として、政府主導で設立された模範工場。
労働時間は1日7時間45分、日曜休み、医療費・食費は国が負担。
宿舎も完備され、読み書き・裁縫といった教養も学べる教育的な場でもありました。
「異人が乙女の生き血を吸う」といったデマが広がったとき、初代所長の尾高惇忠は、自らの13歳の娘を女工として入所させ、風評を払拭しました。
働くことへの誇りと学びの機会があり、彼女たちは技術を身につけて郷里に戻り、各地の製糸場でリーダーとなっていったのです。
一方、『あゝ野麦峠』が描くのは、時代が下った大正~昭和初期の民間製糸工場。
急速な経済成長の中で労働力の需要が高まり、過酷な長時間労働や低賃金が問題となりました。
つまり、同じ「女工」といっても、富岡製糸場とその後の民間工場では、背景も環境も大きく異なるのです。
ここには、現代にも通じる教訓があります。
働き方改革、そして「休み方改革」が叫ばれる現代。
単に労働時間を短くすれば良いのではなく、「働く場に誇りが持てるか」「成長の機会があるか」「安心して休める仕組みがあるか」といった、職場の“質”が問われているのではないでしょうか。
140年前の富岡製糸場が、実はそうした観点で設計されていたことに驚かされます。
企業として“模範”であろうとしたその姿勢こそ、いま私たちが見直すべき価値なのかもしれません。
おおたけ












